ニジマスに込めたロマンは世紀を超えて

 カヌー大会で選手の皆さんの手元に毎年参加賞や特別賞としてお渡ししている、ニジマスの甘露煮とムニエルを覚えていますか?

 あの賞品を皆さんに毎年御提供下さっている内川さん御夫婦のニジマスに賭けた熱き思いを、ここで御紹介いたします。

 世に初めて「ニジマスの甘露煮」を製品として送り出した内川養鱒の御主人、旧姓荒井鉄朗さんは長野市の御出身で、旧制長野中学(現長野高校)から旧制松本高校(現信州大学)へ進み、当時同じ学び舎には、後の「どくとるマンボウ」で有名な作家北杜夫先生も就学しており、終戦間もない松本で多感な青春時代を謳歌しました。

 その後、鉄朗さんは京都大学水産科に進まれ、昭和28年そこで知った
「ニジマス」のおいしさに大変な感銘を受けました。

 大学を卒業し長野県庁の水産試験場指導員技師として就職された鉄朗さんは、まだ食糧事情が良くない時代、交通の便が悪く、海魚が入手困難な信州人の貴重な動物性タンパク源として、このおいしいニジマスをたくさん提供し、大勢の人達が家庭の食卓に並んだにじますを囲み、楽しい家族の会話の花が咲いてくれる事をいつも夢見ていました。

 やがて明科町に赴任した鉄朗さんは、地元の各養鱒業社を指導する傍ら、施設内に近隣のインテリな学生や若者達が多数出入りし、夜明けまで互いに熱く議論し合うハイカラな若者達の溜まり場にもなっていた風変わりで居心地のいい養鱒業社に出入りする常連さんとなりました。
 今ほど物は豊かではありませんでしたが、みんなで薄焼きを焼いて食べたり、いけすをプールにして仲間で泳いだり当時の世界情勢等をテーマに議論しあったりと、楽しく有意義に過ごしました。

 その居心地の良い養鱒業社には、当時松本市で保育士をしていた内川享子さんという娘さんがおり、やがて若い二人は恋に落ち、当時としては珍しい恋愛結婚に至りました。

 御結婚されて姓を内川とした鉄朗さんは、県の指導員技師を辞して享子さんの御実家の家業に身を投じました。

 鉄朗さんの脳裏には、大学生の時、にじますのおいしさを知った時の感激が忘れられ無かったのでしょう。享子さんに常々「俺は、大勢の人たちにニジマスのおいしさを知って欲しいんだ。」と言うのが口癖でした。

 鉄朗さんは、自身の生涯をにじますの普及にロマンを求め情熱をつぎ込んだのでした。
長野県下の各河川に放流するニジマスを内川さんたちはたくさん育て提供しました。

 帰化種のニジマスなら、きっと繁殖力が旺盛ですぐに定着するだろうと当初は見込んでいましたが、ニジマスは想像以上に繊細な魚で、なかなか定着しませんでした。それでも内川さんたちは決して諦める事無く放流用ニジマスを長年提供し続けました。

 また、鉄朗さんは「子供達にニジマスのおいしさを知ってもらえれば将来広く普及する。」と考え、近隣小中学校の学校給食へも採算度外視で提供し続けました。
 子供達に食べやすいようにと、夫婦二人だけでニジマスの小骨を取り除く根気の要る作業を、来る日もくる日も続けた事もありました。

 また、多くの人達においしくニジマスを食べて貰うために夫婦で色々試行錯誤し次々とオリジナル料理を考案していきました。「ニジマスの甘露煮」「ニジマスの味噌漬」「ニジマスの昆布巻き」などは全て内川さんご夫婦が考案し全国に広がりました。

 更にはニジマスの原産地カナダや合衆国の調理は多くがムニエルにして食べている事を知り、それらの研究にも勤しみました。
ある時、内川さんのところで出されたニジマスのムニエルを食べたお客が「昔帝国ホテルのメインデッシュで出された同じものより遥かにおいしい。」と絶賛していったそうです。

 やがて、時代は移ろい、日本人の食生活も段々豊かになって行くと、食卓での動物性タンパク源は魚から肉類に主役が移り、更には長野県にも高速交通網が完備され、海からの鮮魚が容易に手に入ってくるようになると、過去隆盛を極めたニジマスの消費は著しく落ち込んでいきました。

 また、アウトドアブームで渓流釣りが盛んになってきたせいか、「岩魚」「山女」の方を珍重する風潮が一人歩きするようになり、益々ニジマス離れに拍車がかかる時代が続いて行きました。

 しかし、現実にはニジマスの方が岩魚や山女などより川魚独特の匂いが少なく現代人に受け入れられやすい事を知っていた内川さんは「いつか、消費者も理解してくれる」日を信じて粘り強く養鱒業を継続していきました。

 そんな時期に、にじますカップは始まりました。カヌー大会の名称に、御自身の情熱を注いだ魚の名を冠していたことに内川さんも大変喜んだそうで参加賞の提供にも大いに協力して下さいました。 カヌー大会に参加した選手で内川さんの御店を訪ね「参加賞がとてもおいしかったので」と買いにきてくれる人もいらしたそうで、内川さん御夫婦にとっても「にじますカップ」の存在は励みになったそうです。

 しかし、1999年11月28日、おいしいニジマスをたくさんの人達に味わってもらうというロマンに人生を注いできた内川鉄朗さんは、急性心不全のため急逝されました。

 悲しみに暮れるだけでなく、残された享子さんだけでは養鱒業をこのまま継続して行く事はどうしても困難だったため、断腸の思いで中断せざるを得なくなりました。

 しかし、鉄朗さんが生前いつも享子さんに語っていた「俺は、大勢の人たちにニジマスのおいしさを知って欲しいんだ。」という言葉を思い出し、鉄朗さんの注いできたニジマスへの情熱を、ここで断ち切ってしまうわけには行かない。と御自身の気持ちを奮い立たせ、ニジマスの加工食品の製造は現在も元気に続けておられます。

 やがて新しい世紀になり、巷では「おさかな天国」の歌が流行するなど魚が見直されるようになり、再び安全でおいしいニジマスもクローズアップされ出し、最近希望の光が差し込んできているようです。
 その後、享子さんは娘さんと一緒にヨーロッパ旅行に出かけた際、オーストリアの高級レストランで注文したニジマスのムニエルを食べてみて驚きました。

 なんと御自身の作るニジマスのムニエルの味にそっくりで、同じ物を食べた娘さんも「これ、母さんのと同じ味だ。」と言いました。

 鉄朗さんと永く二人三脚で勤しんできた内川さん達のニジマスの味は、いつの間にか世界のトップレベルの域にまで上り詰めていたのです。

 鉄朗さんが生前常に語っていた「大勢の人たちにニジマスのおいしさを知って欲しい」遺志を胸に、享子さんは今年もお一人でカヌー大会に参加する選手全員の参加賞と特別賞を心を込めて作り皆さんの御参加をお待ちしています。